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特効薬を期待する発想として、遺伝子解析に基づくオーダーメイドの抗がん剤治療の展望があれやこれやと語られる。 万人よりも特定の個人に重きをおく薬剤が広範に流通するような医療が実現するのは、果たしていつの日のことであろうか。
私たちはがん治療の過渡期、すなわち外科治療中心の時代に生きている。 現今の外科手術に対して、将来、結核の際に似た厳しい評価が下されるとは跨外のことであろうが、さりとて不朽不変の治療法とは考えにくい。
近い将来、ほとんどのがん種で手術に桔抗する非外科的、非侵襲的な治療手段の日常化が待望されているのは疑いえない。 とりもなおさず標準的な三大治療法に次ぐ第四の治療法として、種々の免疫療法に熱い視線が注がれる。
代表的な免疫細胞療法は患者自らの白血球を体外に取り出し、標的のがん細胞を記憶させ体内に戻してがんを攻撃させるという論理であり、副作用のない利点がしきりに強調される。 ただし、免疫力が最も活性化されるのは生殖可能年齢である。
その力が格段に衰えを見せる高齢期に多発するがんで易々と奏功するとは考えにくい。 またヒトゲノム解読の完成がいわれる昨今、がんの複雑な不死化の仕組みや転移能のメカニズム解明に、遺伝子技術の応用が取りざたされる。

傷ついた遺伝子が作り出す蛋白質がいかに形成され、どのような役割を果たしているか等々、私の個人的な興味も含めて一般的な期待は高まっている。 がん遺伝子やがん抗原の各論が次々と明らかにされようとも、本格的な遺伝子治療は当面、夢物語に近いというべきである。
たとえば騨臓がんの帰趨を展望する場合、遺伝子、免疫的手法など集学的方法を動員するとしても、決定的なブレイクスルーへの壁はなお厚く、当面一○年、二○年、悪くするとさらに目下のようなせめぎあいが続くと予測される。 いたずらな悲観論も根拠のない楽観論も意味をなさない。
ひとえにがん制圧の歴史はさらなる医学の進歩によりがん治療の前進が十分期待できることを教えてはいる。 私たちがそうした行程を歩いているのはまちがいがない。
だが、いったい現在どのような地平に、果たしてその何合目当たりに到達しているのか。 心して初歩的な事実に立ち返る必要があるように思われる。
嘗て急性期の疾病が主流であった時代には、病気というものはいかに辛くても一時期のエピソードとして過ぎてしまうものとみなされてきた。 現在は生活習慣病の隆盛に見られるごとく、慢性的な経過をたどる疾患や後遺症を残す病気に根気よく向き合わねばならない時代といえる。
この際、過度に医学的な技法(高度技術)に頼るだけではなく、人間としての構え、心得(社会的な作法や生きる哲理)をより深めて、「がんと向き合う」必要があるかに思われる。 なすがままあるがままなり二○○六年一月二二日私がT上典子さん(仮名)と診察室で直接に対話したのは、一年足らずの間にわずか三度ばかりである.ずいぶん以前から交流のある患者さんの一人のように思われてならない1.真冬の格別に寒く思われる一日、T上さんは病院の外来にやってきた。
私は比較的時間に恵まれた土曜日の午前中にがんの患者とじっくり対話できることを希望して、予約制の「がん相談室」的な時間帯を設けている。 彼女は夫と連れ立ってその場に顔を見せたのである。
第三章で述べたように肝臓がんの治療は次々と再発してくるがん種に対して、「もぐら叩き」と称されるように何度も腫痛を潰す作業を繰り返さなければならないことが多い。 彼女の場合、一五年ほど前からC型慢性肝炎、それに起因する肝臓がんの治療のため、これまで六度の入院時に塞栓療法(TAE)その他の治療を継続してきた。
目下、地域を代表する医療センターに通院中だが、肝硬変が進んでいるため外科手術はもはや論外である。 またラジオ波による治療は近接している他の臓器(胆嚢)を傷つける恐れがあって適用は難しいと二二口われたらしい。

それで年末に発見された新たな腫傷に対して、主治医からまたTAE治療によるがん潰しを勧められているという。 一応、近々の入院治療に向けて予約はしているが、自分なりに冷静に状況を判断すれば治療はもう限界のように思われる。
それならばもうこれ以上自らの身体を痛めつける苛酷な治療を断念して、自然の成り行きにまかせるべきではないのだろうか、と彼女は思いのたけを淡々と打ち明けてくれた。 なるほど持参した検査成績からは、ほぼ肝不全に近い重症の肝疾患であることは一目瞭然である。
さらにその場で実施した腹部超音波の検査では、治療済みのものも含めて少なくとも五つの腫傷陰影が認められた。 その日、一時間ほどの診察・対話中、彼女は何度も「私は穏やかな死を希望している」という趣旨の発言を繰り返した。
いろいろと考え抜いた上での結論と思われて、特段に高ぶりの認められない笑顔さえ浮かべてのことで、言葉の端々に常に死と対話してきたような雰囲気がかぎとれるようであった。 私とすれば、六五歳という(今日の日本女性では若いといえる)年齢に似つかわしくない、死を見つめる姿勢と決意のほどを見せつけられたようで、軽々に口にできるような言葉は多くはなかった。
それにしても現在のがん治療は患者に厳しい「選択と決断」を迫るものだと、この場合にも実感させられる。 それだけに医療の側は「適応と限界」の問題に謙虚であらなければならない。
できるということと価値あるということとは別だ、と常に自戒しながら治療法を選択するのが医師の最も大事な役割ではなかろうか。 それで私はTAE治療の妥当性と、他方で限界性に手短に言及した上で、「あなたの主治医は以上のようながん治療の基本をしっかりとわきまえている人のように思う」と言い切った。
「もう少し粘ってみるべきです。 がんばって治療を継続してください」と声を励まして告げた。

正直に言って彼女にとっておそらくこれからも入退院の繰り返しで、生と死のすり合わせのような日々になるであろうが、この人ならばそれらの時間を十分に意味があるものにできるであろうと直感したからであった。 すると彼女は、私の考え方を是としたというように、にっこりと微笑んでくれた。
彼女にしてもラジオ波治療の可能性を知りたがっていた面もあったようで、やはり心のどこかでさらなる治療を期待していたのかもしれない。 T上さの二度目の来院は春になってからであった。
その一週間ほど前、前述の第一四回神戸シンポジウムの会場で、五○○人を超すような多数の参加者の中にT上さん夫妻をちらりと見かけた。 その日、難治性肝臓がんの最先端医療について神戸大学のG教授の講演があった。
座視すればまもなく死に至る末期肝臓がんに対して、独自の果敢な治療法を施すことで、予後が一年程度延命されるといった生と死のぎりぎりの先端医療の話も含まれていた。 私は同じ会場にいるT上さんがその演題をどのように受けとめているか知りたいと思った。
数日後、私の方からT上さんに連絡をとった。 来院した彼女は三月前の一月の時よりは明るい声で近況を話してくれた。
前回の診察以後、一月の末にTAEによるがん潰しの治療を受けて、現在は漢方薬などを併用して加療に努めているとのことであった。

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